昭和52年05月02日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀なの続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九、部かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
今朝がたお夢を頂いた、よく知っとりますある教会の総代さんです。もうかれこれ30年ぐらいもう毎日日参をされる。もうそれこそあのう大風の時であろうが大雨の時であろうが、矢張り日参をされる、しかも自転車でそのう相当の道のりをお参りになるんです。なかなか穏やかなにゅうまんな方です。まぁ言うならば良い信者さんであり、名総代さんと普通まぁ申しますとこなんです。だから良い信心が出来、そういう辛抱強い信心が出来、そして真面目でおだやかな人です。
その方がそのう自転車でやっぱりこう来よりなす。そこへあまり広くはないけど狭いお家があるお墓、そこにあのう一本あのう白い夜梅の花がこう、まぁ今を盛りに咲いておる。その墓の前までその自転車で来られると、そこで一服されて、そのう話しておられるのが、この梅ん花ばっかりゃ咲くこたぁ咲くばってん、いっちょん実が実らんと言うておるところのお夢であった。私はこの28節と次29節は、桜の花の信心より梅の花の信心とこう仰るが、ただ辛抱強うお参りをしておると言うだけでは。
それは梅の花の様な信心であって、梅の様な梅の花の様なであって、実はあのう桜の花の信心だと。花は咲いても実が実らないと、信心の後先も出来なさる具合でもない。けれども信心されてきておかげを頂いている、しかもそのおかげが実りになると言う信心をさしてもらう。改めてこの辺の所をお参りをしてみなければいけない。成程別に次々と難儀な事が起こる訳でもない、ないのになら大したおかげというか実りと言うおかげになっておられないと言うそう言う様頂いて。この28節を頂いてる訳です。
病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと、病気災難が寝の切れると言うだけではなくて、繁盛するようと仰っとられます。だから繁盛につながらなければならない、そこにはなら元気な心で信心せよと。2,3日前ですかねぇ元気な心で信心しよるけれどもそれが殻の元気で、いわゆるしいら元気なんです。実のある元気本当の元気と言うのは、貫く勇気がなからなければ元気な心とは言えない。貫かなければ元気な心ではない。
同時に私は今日思うんです。どういう風に頂くんですけれども、なら30年間と言う長い間を貫いていずみに金光様の信心を続けておられる、まぁいうなら元気な心で信心をしておられるのだけれども、ならそれが実が実らないと言うのは、一種その手が抜くと言う事が本当のところに出ると、なら絶対おかげの頂けるお徳の頂けれる信心につながって、そして信心辛抱が出来てです。今日の見せて頂くという信心が梅の花の信心。この梅の花の信心なら実らない筈がない。私は今朝からそういうお夢を頂いて。
ある〇〇教会の○○さん総代さんじゃないけれども。なら合楽の教会だって同んなじ事。もう皆んな30年近く信心なさっておられるのに、成程てしば先生の終わりようのない、まぁ言うなら特別貧乏もしない、もう居るだけは神様がちゃっとおかげを下さる。おかげを頂いて家庭争いもない、今そりゃその人間の生身の人間の集まるしかないけれども、老いでさぁどうなさるかと言う様な事で、解決がついておる。まぁ争いのないあろうとしても、それが穏やかに済んでいくと言うおかげを頂いておる。
もうおかげで何十年間薬一服頂きません。医者にも掛かった事がありませんという、程度の所のおかげを頂いておる人は、沢山おります合楽には、けれどもその何んかしら信心が堂々回りでおかげが、なら繁盛と言う事に繋がっていない様な感じだと言うのです。そこで改めて思わなきゃならんが、私共何十年間信心辛抱梅の花の信心させて頂いておるけれども、花は咲けども実が実っていないとするとです。
こりゃやっぱり今の梅の様な信心であったり、桜の花の信心の様な信心ではないかと改めて思うてみなければならない。貫いたグロッキー時もあったけれども、やはり気を抜いて今日までおかげを頂いて元気な心で信心して来たけれどもね、して来たけれども本当にお徳につながるおかげにつながる信心ではなかったと、もう一遍ここで思うてみなけりゃいけないと言う事でございます。そこでです、どこに焦点を置いて信心をさせて頂くかと、昨日のとかの御理解でしたかね。
研修ん時に正教先生が発表しとりましたがね、いろいろとその御理解を、金光大神の言う事に背かぬようね、というあのう御理解でしたね一昨日でしたでしょうか。そこでその御理解をまぁあるいろんな角度から頂いて、こう纏めて見ましたら。結局は親先生の言われる事に背かぬようにと言う事になります。という発表を致しとります。金光大神の言う事に背かぬようにと言う事を、いよいよぎりぎりのところに極めて参りますと、親先生の言われる事に背かぬよう、私は本当に親先生の言う事に背かぬように。
なら30年間なら30年間の信心を築けてきたか、なら一心におしまいやらつけておりますというても、その貫いてはおるけれども、貫いておるその焦点というものが少し狂うてはいないかと、なるほどそれこそ痒いところに手の届くような御用もさして頂いて、親先生のた夢にも思わない様に、言うなら親先生を喜ばせる様な信心も言わば出来て、そのそれはいうなら自分勝手の信心である。
そう言う信心を出来ておるのにも関らず、ならさぁ合楽で何かあると言うて御用でもと言うて、まぁ一番になら御用でもさせて頂く、親身に教会の事にも御用打ち込んでおるのだけれども。果たして親先生の言う事に背かぬような信心が出来ておるか、私しゃここの思いに立った時にです、私はそんなに難しい事言っているだろうかと言う事でございます。例えばそんなに痒いところに手の届くような信心は出来んでも。
さぁ御用と言うてその大した御用は出来なくても、これだけは親先生の言うござるとを、守り抜かせて頂いておると言う人達ならばです、必ず繁盛のおかげを頂いて行かなければならん事なっとるとじゃん。私は自分ながらもう自分でやってみて出来る、しかもそれをいろいろまぁ仕入れて見て、なら私が昔の表行時代と言うかね、夏も冬もなしに夏服一着で過ごしたり、風呂は一生入らんと言う所にも入らなかったり。3年間というものは一椀のお粥で過ごさして頂いたり。
その時分の信心は、私がそういう信心を真似しなさいと言うなら難しいかも知れません。そこでなら私が最近これだけはしっかりおかげ頂かにゃ、ここだけはと言うておるのがまずまずどう言う事かと言うと、五つの願いです。これは御神前に柏手して拝まして頂く時にゃもう必ず、叶うごと唱えなさいよと。体の丈夫の事を願わんでも、体の丈夫は頂いとるから根がわんと言う人があるかも知れんけれども。体の丈夫、家庭に不和無きが元、子孫繁盛家繁盛。
いうなら貧争病のないおかげを頂いておるから、これは繰り返しそげん唱えるもんじゃないと言う様にして、唱えてない人が、まぁだそれを暗唱してないひとすらがあると言う事です。そして唱えたらどうでしょう。この先は柏手打って御神前に向こうたら、必ず唱えなさいよと。それが難しいでしょうか。体の丈夫を願う、からにはね大食をして健康を願うと言ったって、それは理不尽な事ですから、私はこの願いが始まると同時に、夜食をしないと言うと言う事に決めた。
と言う事を皆さんに聞いてもらってですね、体の丈夫を願うからには自分でも体を大事にしなければならない。家庭に不和の無きがもとと家庭の平和を願うならですね、言うなら私が家内やら子供やらを、責める様な事では家庭の平和は望めないとして、私は家内も責めない子供も責めない。どうしてと言う事を言わない事に心を決めた。これが難しいでしょうか。子孫繁盛家繁盛その繁盛を願うならばです、例えばものやら金やらを、無駄使いどんする様な事があってはならない。
と言うならば自分の事に使う時には、それこそ祈りに祈り願いに願ってからしか、使わん事に決めておるし。こと神様の御用だったらそれこそもう全財産にのして頂くような事を私は思うておる。真の御用が出来ます真の御用が様に、神願成就の事のための御用にお使い下さいと言う、出来ても出来んなんとにかくこの、五つの願いがだけは繰り返し繰り返しさせて頂きなさいよと、言っておるのですけれども、果たしてこれを繰り返しておるでしょうか。
いんやいろんな御祈念の時だけはそれを唱えよります。けれども柏手して御神前に向こうたら必ずその五つの願いだけはしなさい。と私が皆さんに言っておる訳ですね。四神大祓い信行の決定。もうそれこそ一日欠いだっちゃ神様をひもじい思いをさせると思うて。しかもこれだけは無条件。金光様の御信心を頂いておるご信者としてはもう当然の事として。大祓い信行だけはどんな事があっても欠かしてはならないよと。これは神様へ御神飯をあげる様なもの。
栄養失調になってござった神様が生き生きとしてみえる。はぁそれだけでも有り難いけれども、吾なる心の神がまた生き生きとしておることに、それを続けておる人は体験しておると言う事である。だから5巻10巻とこういうけれども、せめて1巻づつでも続けておる。その1巻では勿体無い有り難うなって来たら、2巻3巻と増やして行ったらいい。だからひとことある。
朝の時間と言うのは、昼のの時間の3時間にも、またそれ以上に匹敵すほど大切な時間だから、朝の時間を大切にしなさいよ。もう私がまた繰り返し繰り返し皆さんに頼む様に言うとる事がまだ他にもありましょうけれども。どの一つだってそげん難しいと私どんじゃ出来んと言う事はないことを、疎かにしておると言う事であります。正教先生が言う様に結局金光大神の言う事に背かぬ様にということは、ぎりぎり親先生の言われる事に背かぬ様と言う事になるから。
ほかの事は出来ないに致しましても、親先生の言う事には背かぬ様に信心が、もし30年出来ておるならば、絶対無駄になる事はないです。親先生の言われる事に背かぬ様にと言う事。昨日一昨日、日田の梅山さん達夫婦でお参りをしてきて、大変いろんな難儀な問題が重なっておる、もう親先生にお縋るするより外はありません。とここで言うから私はその言葉を聞くと同時に申しました。いね梅山さんあんたが親先生にお縋りする外に手はないと、本当に思うとるならおかげになるよと私は申しました。
昨日朝のご祈念によるに出てこれじゃった所が、ガソリンがあのう車に入っとらじゃったからというて、御祈念後にお礼に出て来た。もうそれこそもう見事にどれもこれも、晩の一時か二時までも掛かったそうですけれども。その問題がもう嘘の様に解決してしまっておると言う事です。親先生がね、親先生にお縋りするより外にないと、それが本当なら梅山さんおかげになるよと私が申しました、もう後はつかんなその時申しました。ですから本当に親先生にお縋りするよりないという行き方だったら。
私と同んなじものが頂けない筈はないから私は確信を持って申しました。からおかげを頂いてあの事もこの事も3っつ程大切な問題があった。それが解決のおかげを頂いて、なら昨日お礼に出て来たと。そこでです果たした私共の親先生にお縋りするより外に手がないと、言いながら思いながら、いや思うていないかも知れん。先日ある人が商売があんまり振るわない。それでまぁ一生懸命お願いさしてもろうて、休まして頂いたらお夢を頂いた。ところが御結界でそのいろいろ商売の事お願いさせてもらいよったら。
その人の奥さんが御結界に坐っとる。そしてその奥さんがね、お取次ぎを頂きょられた。足ば投げ出しとったちゅう。だから申しました。あぁたが私一本のごとしとるばってん、実を言うたら奥さんのいうなら、奥さんにお取次ぎを頂くような心の状態が、足を投げ出しとるちゅう事は足が出るちゅう事。商売人の言葉で足が出ると言う事は損すると言う事である。神様もう親先生があぁたに縋るよりもう外にはないと言いながら、誰に縋ったり彼に縋ったり家内に縋ったりしとる。
しかも家内が右と言えば、はぁそうですかと言う様な事になってしもうて行きよる。それではそれこそ御結界では奥さんが足投げ出しとるちゅう。これでは足が出るよと言う事です。だから今私の今日から親先生もうあぁたにお縋りす外になか、という信心はこりゃとても素晴らしい、こりゃもう私の力がそのままそこに現れる筈です。なして私一本に縋ったんですから、所が実を言うたらあれにも縋りこれにも縋りしておると、口だけではいけない、だから私がなら気の利けるように。
梅山さんに言ったのはまだ外に縋ると言う気持ちがあったかも知れません。口だけじゃったかも知れません。けれどもそのお届けの半ばに、親先生もうあなたにお縋りするより外にありませんと言う事聞いたから、なら梅山さんそれが本当ならおかげになるよと、そこで腹が決まったんです。そこでですね、もうあなたよりお縋りする外ありませんと言うてお取次ぎを頂いておかげを頂いたなら。それから先は大坪総一郎の言う事を、聞いもらわにゃならんと言う事になるでしょうが。
私はそげん聞いてばっかりやる訳にゃいかん。もういよいよどんこん出来んと言うから聞いてやっている言うなら。だからもうその明くる日からどう言う事になるかならんかというと、なら大坪総一郎の言う事に背かぬようにという生き方を身に付けたときにです、もうこれはずうっと私が頂いておるなかになる、頂いて行くと言う事。本当に合楽の場合は日勝り月勝り年勝りに、おかげを頂いておる事実をね。皆さんがそういう一つの手本を見て下さらなきゃならん。
これも本当にそうなんですよ。はぁりゃもう合楽にゃ毎月500万づつも水上げがあるげなと言うて、人が噂しょる時分にはまだ300万くらいしかなかった。しもとりすが人がそげん噂する事なりゃ違わんそのおかげを頂くよっち言よったら、二月目ぐらいから500万くらい下がるごとなった。それから600万ある、それから700万ある、先月なんか8百何十万あがっとる。だから私は人の言われる様な事ってん、この皆さんに言いてもろうてですほんな事ですからね。
新しい生き方ならもう絶対繁盛しない筈ないのですから。そしてなら私に言う事は右左にしといて、先生どうぞお願いしますという。例えば先生もあなたのお縋する外にありません。と言う様な姿勢やら態度をとっておっては、その実はね去年の批准でも伺うごうておると言った様な事ではです、おかげになる筈がない。外の者の言う事はもう例えば親先生が右と仰った。家内が左と言うたそんなら左にしょうか。じゃなくて親先生が右と言われたからと言うて、そう言う事はもう一蹴してね。
それに私の言う事を聞くと言う事。ほりゃ日々お取次ぎを頂くと言う事だけじゃない、なら言うならばもうこれだけは守んなさいよと。大祓い信行であり五つの願いの言うなら唱え文句であり、親先生がもういつもこればっかりゃ繰り返し頼むように言われる。そのことをです。私は言う事を聞いて10年であり20年んであり、今朝のお夢を頂いた。そのまるまる教会の総代さんは、う30年間毎日降ろうが照ろうが。それこそ大雨の時であろうがね、大風の時であろうが自転車で参りなさる。
それでいてならお墓の前に一服しとんなさる、しらやのこの梅は一つも実が実らんというなるのは、何時も寂みぃしいおかげだけしか頂いてないちゅう事だと思うんです。墓のごと言う事は。いかに貫いても間違いのないところに打ち込まなけりゃならない、貫かなきゃならない。そこをなら合楽の場合は、はっきり明示して、ここんところをひとつだから私が言う事はいっちゃん難しい事は言いよらんと私は思うんです。
今日一篇だん大祓い無礼したっちゃよかろう。稼いでおったんでわけもうだめ、もう晩にいよいけんでもよかろう。じゃないまだから私がどこあのうちょっと医者でうってからどげんすとが見えて御覧なさい。必ず五つの願いを言よるけんちょっと待って、そのだれよるけん暇のいるでしょうが。こればっかりゃ柏手して御神前に向こうたら、もう絶対必ずいうたってもう神様せからしか度々そげんいうちからちゅうか絶対仰らんです。それが人間のもう願いに願って居る。
しかも神様の願いに願ってござる願いですから、神様の願いと氏子の願いが一つになるからね。体の丈夫だって家庭の平和だって、子孫繁盛家繁盛のことだって、本当に神人を求め給うと仰せられる様に、本当にお役に立ちたいと言う一念を燃やして、しかも天地金乃神様の手にも足にもならせてくださいと言う、五つの願いををです、神様がもうそげん何遍でも願うなと仰る筈がないじゃない。神様のお願い同時に私共の願いでならにゃならん。願いなのです。
だから10篇御神前に向かうなら10篇このこの事だけは唱えなさいと、だから皆さん今日はね大坪総一郎が言う事に背かぬ様にと言う事を、大祓い信行と五つの願い。そういう願いを持たせて頂いてなら私のお参りがです、なら痒か所に手が届く手の届くようないろんな御用やら、いろんな事やらもですさせて頂くこれはもう皆さんの信心です。けれども大坪総一郎の言う事に背かぬ様に、特になら合楽では只今なら合楽理念と言う事が、いうそれこそ叫ばれておるです。
いわゆる合楽理念のマスターができましたか、こういう時にどうある事が合楽理念に基づく事か、その合楽理念をです決して難しい事じゃない。有り難う嬉しゅう、しかも愉快に行じられるいうなら行じ方を、まぁ皆さんに聞いて頂いておる訳です。そういう例えば金光大神の言う事に背かぬように信心してですね。井戸ざらえをする気持ちが必要なんです。途中でやめれば何時までも水は濁っておる。
だからそこはいうなら、信心辛抱で辛抱強う、10年20年30年も、もうお日参りを欠かした事がない、と言う様な信心であってもです。本当な水が井戸替えになっていないとするならばです。ここで一つ本気で自分の信心を反省させてもろうて、金光大神の言う事に背かぬ様にと言う所が出来ていないのではないかと思うてみる。今ここではぎりぎりに決着それを煎じ詰めると、大坪総一郎の言う事に背かぬ様にと、言う事になるのじゃないでしょうか。
もう私しゃ私が言う事を言う事に背いてですね、どんなによか信心が出来ても合楽ではおかげ頂かんです。いわゆる実が実る様なおかげにはならんです。花が咲いただけじゃいかんです。実のある信心辛抱強しとるけん実らん信心のごたるばってん、あぁた実が実らんならどうするですか。それでもあぁたおなしこっちゃないですか。難しい事じゃない。ですそげな簡単な事でもどげんでんよかち思よったばってん、やっぱそげん大事な事じゃろうかと言う事をです、今日は改めて一つ皆さん心して頂きたい。
もう親先生あなたによるもう縋る以外ありまっせん。本当にそうなればおかげになるよと。たとえ断言できる程しに間違いのない事です。これは梅山さんの例を取ったですけれども、梅山さんだけの事じゃありません。ですからそういうおかげを頂いたならば、その次にはです、なら私の言う事を聞かにゃ出来ん。それもなら無理難題を皆さんにお願いしたり、調整したりすることじゃ決してないのです。言うならば、せめて大祓い信行だけ、同時にこの五つの願いという願いをです。
もうこれだけは御祈念をするたんびに欠かした事はない。と言う様なところだけでも守ってその上に、皆さんが今なさっておられる信心も、又、そりゃより結構なんです。こりゃもうさしてもらう一生懸命お参りもさしてもらわんならん。親先生の痒かところへ手の届く様な、言うなら行き届いた信心もさしてもらわんならん。それただけじゃもう限りがない。けれども肝心要の大坪総一郎の言う事に背いて信心したところでです。
これはほれ何十年信心しても実がもし実らないとするならば、守っていなかった証拠と一つ悟らして頂いてです守って頂きたい。そしてまさかの折には親先生もうあなたに縋るより外にないという関係だけではない、言ういいながらもう自分ないっつも親先生本位であると例えば言いながら思いながらです。家内が右といやぁぐらっとし、左といやぁまた左の方へぐらっとする。言う様な事では足が出ると言う事にしかならんです。
そういう意味でならそういうものを内容として、元気な心で信心して、元気な心いわゆる貫く心というなです。これはちょっと難しか。けれどもね本当に信心でおかげを頂こうと思うならば、徳を受けようと思うならば、左の力を頂こうと思うならば、そのいうなら貫くと言う事に掛けさせて頂く。それが元気な心だと。三井先生の御理解の中に、はぁ親先生は今日はこういうた。ならこういうたと言う事をです言うなら守る事が、親先生の言う事に背かぬようと言う事になります。
大きくまぁ言うならばね、大祓い信行と五つの願いと言う、こういうなら簡単な事を無下にして、そしてどういうか信心が出来て詳しゅうなってもです。これは成程貧争病のないおかげを頂いておるごとはあるけれども、それが繁盛になっていない。500円が6百万にならにゃいかん6百万が7百万にならにゃいかんでしょう皆さん。だからそう言う事に頂きたい、ならば私があんたがその気ならば絶対おかげを頂くよと言うおかげを受けて、大坪総一郎の言う事に背かぬようと言う信心をして頂きたい。
必ず病気災難の根が切れるでしょう。井戸は清水になる様に、綺麗な水をいうならば汲み取ることが出来るおかげが頂かれる。おかげを頂ける振り返ってみるとなるほどおかげを頂けん筈だというものがどこにかある。それを例えば分からしてもろうて、それを利用していくと言う事が信心ですし、日々の改まりが第一と言うのもやっぱりその事です。きつい事は言わん無理な事は言わん、これだけはどうぞ守って下さいと言う事を今日を改めてまた聞いて頂きました。
どうぞ。